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二代 重政(しげまさ)

(重政作 竹二重切花入)

  ◆慶長十二年、紀州和歌山城下に生まれました。宗箇の次男にあたります。 兄の主水助重秀が幕下に召しだされたため、広島上田家二代の主となりました。 父の宗箇に茶を習い、花入、茶杓、その他自ら作った茶器で今日まで伝わっているものも多くあります。

四代 重羽(しげのぶ)

(重羽作 庭焼水指)

  ◆四代上田主水重羽は、寛文二年( 1662 年)に生まれ、はじめ重矩と称し、元禄二年( 1689 年)、二十八歳で家督を嗣ぎました。号を沢水とし、竹花入、茶杓をはじめ、庭焼の茶碗、水指など残された作品も多数あります。

 宗箇の茶は、預り師範三代野村円斎から伝授されました。円斎は初代野村休夢の長子で、九歳の時宗箇の近習となり、父休夢とともに直接宗箇から茶を学んだ人でありました。

十一代 松涛(しょうとう)

(松涛作 庭焼黒茶碗 銘 富貴草)

 ◆浅野主計の弟安節が上田家に入り十一代の主となりました。松涛と称し能書家として知られ、その書が諸所に散在しています。

  松涛時代、京都より千穂平を招き庭焼が盛んに行われていて、千穂平作の利休七種写しや松涛手作りの茶碗や水指もいくつか現存しています。

十二代 譲翁(じょうおう)

(譲翁好 折鶴蒔絵棗)

 ◆十二代上田主水安敦は、幕末混乱の時に国老を務め、国事に奔走し、明治に入ってまもなく家督を譲って剃髪し、譲翁と称しました。歌をよくし、歌集や紀行文なども多く残っています。

 譲翁に宗箇の茶を伝えたのは、天保~弘化年間( 1830 ~ 1847 )、頼山陽、囲碁の本因坊秀策とともに広島三才の一人と言われた預り十二代の野村餘休でした。

 伝えられてきた宗箇の茶を流儀として改めて意識したのはこの譲翁が初めてだったのではないでしょうか。自身は名乗っていないが、相伝状に「家元」という文字が見えるのもこの時代からです。それまでは、代々の人に上田家を嗣ぐものとして宗箇の茶を修め、継承するという意識はあったとしても、その伝授については預り師範任せであったのを体系的にまとめたのが譲翁でした。伝えられた茶書の研究、道具類の整理なども驚くほど綿密に行っています。明治七年から十一年にかけての自会、他会の茶会記を綴った「雅遊謾録」が残されています。

十四代 宗翁(そうおう)

(桜雀図自画賛 宗翁筆)

 ◆安閑亭宗翁と号し、能書家としても知られ、南画も学び、花入、茶杓などにも優れた作品を残しています。 正三位男爵。饒津神社の宮司も務めました。

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