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上田宗箇(1563年〜1650年)

( 仏胴腰取丸胴具足 鉄黒漆塗風折烏帽子形兜付 )

  ◆ 幼名、亀丸、長じて佐太郎、重安と名乗る。是斎とも号した。 法諱、宗箇。道称、竹隠を春屋国師より授かる。 官位は、従五位下、主水正。

  ◆ 桃山時代の武将茶人上田宗箇は、桶狭間の戦いの三年後の永禄六年 (1563) に尾張の星崎に生まれました。十歳にして父を失い、しばらく禅寺に預けられ、やがて召し出されて丹羽長秀の侍児となり、二十歳のとき、織田信澄の首を討って、天下に勇名をはせました。

  長秀没後は、豊臣秀吉に抜擢されて越前に一万石を領し、側近の大名として仕え、小田原の戦いの後には、秀吉自身の媒酌により、北政所や浅野長政の室の従妹である杉原家次の娘を娶ります。

  文禄の役では、明使引見の席に重臣として列席するなど信任が厚く、文禄三年 (1594) 、豊臣の姓を賜り、従五位下主水正・摂津の令に任ぜられて、常に伏見に侍衛するようになりました。

  宗箇の名は茶の湯史上「利休百会記」においてに初見されます。秀吉の側にいて千利休の茶を学んだ宗箇は、利休没後は古田織部との親交が深まり、ともに大徳寺に参禅して、大徳寺百十一世春屋宗園国師より、法諱「宗箇 ( そうこ ) 」、道号「竹隠 ( ちくいん ) 」を授かりました。

  関ヶ原の戦いで旧主丹羽長重を応援する途中に、その落城を聞いた宗箇は軍を返し、戦後剃髪して、このときから一般に宗箇を称えました。まもなく蜂須賀家政に招かれて阿波に渡り、徳島城表御殿千秋閣庭園の作庭にあたるかたわら、茶の湯指南をして三年を過ごしますが、親戚関係にあった浅野幸長に懇望されて紀州に渡り、一万石の禄高で厚遇されました。宗箇の作庭は、他にも和歌山城西之丸庭園、名古屋城二之丸庭園、広島の縮景園の作庭等があります。

  大坂夏の陣では、泉州樫井の戦いに、敵の猛攻を阻む大功を挙げて、徳川家康、秀忠から激賞されました。この戦いの最中、急迫する敵を待ち受けながら、宗箇は平然として小刀を持って竹藪の竹を切り、茶杓を二本削りました。これが有名な「敵がくれ」の茶杓です。

  元和五年 (1619) 、浅野長晟の芸州入りに従って来広した宗箇は、広島県西部を一万七千石で領し、翌年から長晟の命により、泉水館(今の縮景園)の作庭にとりかかりました。その間、所領内の浅原に一時隠棲し、その後、国事を与り、家督を二代重政に譲ってからは、窯を築いて茶碗を焼くなど、茶の湯三昧の晩年であったと伝えられています。

 慶安三年 (1650) 、宗箇は八十八歳で亡くなります。遺言により、火葬にされた骨は槌で砕かれ、宮島の対岸大野の串山の麓から早瀬の海に流されました。

上田宗箇の足跡

「上田宗箇の遺髪塚・広島県佐伯郡大野町」

  その後も、上田家は明治維新まで代々一万七千石を領し、広島藩の国老職を務め、現代においても宗箇の茶を大切に守り伝えています。

上田宗箇流歴代家元
初代 ●重安・宗箇-主水正慶安三年(八十八歳)没
二代 ●重政-備前守 慶安三年(四十四歳)没
三代 ●重次-主水助元禄三年(六十歳)没
四代 ●重羽・沢水-主水享保九年(六十三歳)没
五代 ●義行-主水享保十年(三十二歳)没
六代 ●義従-主水元文元年(二十二歳)没
七代 ●義敷-主水 宝暦二年(五十二歳)没
八代 ●義珍-民部宝暦五年(十九歳/数)没
九代 ●安虎-主水享和二年(五十九歳/数)没
十代 ●安世・慎斎-主水文化三年(四十四歳)没
十一代 ●安節・松涛-主水安政三年(五十歳)没
十二代 ●安敦・譲翁-主水明治二十一年(六十九歳)没
十三代 ●安靖-従五位男爵明治四十年(五十九歳)没
十四代 ●宗雄・宗翁-正三位男爵昭和三十六年(七十八歳)没
十五代 ●元重・宗源-正五位平成六年(八十一歳)没
十六代 ●宗嗣・宗冏当代家元

 ◆宗箇の茶は今日まで当家に伝えられてきましたが、その伝承の仕方には独特の物がありました。むろん当家代々も宗箇を崇敬してその茶を修め、多くは茶の湯に堪能でしたが、「野村・中村」という二家におのおの百石を与えて召し抱え、これに宗箇の茶の伝承、伝授をさせた。二家は交代でこの役にあたり、「茶事預り」と呼ばれ、宗箇の茶をかなり忠実に伝えたものと思われます。

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