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- 上田家歴代茶事預り師範
上田家は当然代々宗箇を崇敬してその茶を修め、多くは茶の湯に堪能であったが、直接これを人に教えるなどのことはしなかった。
寛永9年、宗箇が致仕した年に、周防柳井の人、野村彌兵衛尉盛安が宗箇の名を慕って広島に移り住み、教えを乞うた。盛安は禄100石を給せられて仕え、のち剃髪して休夢と称し上田家茶頭の役をつとめた。これが初代の「茶事預り」といわれた人である。この初代茶事預りとなった休夢の門人に中村雅親・知元という人がいて、同じく100石を給せられて上田家に仕え、休夢の没後2代預りとなった。すなわち上田家においては、野村・中村という2家を召し抱えることによって、茶の湯を伝授させ、2家は交代でこの役にあたって、宗箇の茶を忠実に後世に伝えた。
明治39年、15代中村快堂が没したあと野村・中村両家に嗣がなく、高弟の向井竹蝸堂を16代に、加計静堂を17代としたが、昭和30年に静堂が没して、上田流茶事預り師範の制度は終わった。
- 初代 野村休夢
- 2代 中村知元
- 3代 野村円斎
- 4代 中村元賀
- 5代 野村祖休
- 6代 中村泰休
- 7代 野村旦心
- 8代 野村休夢
- 9代 中村知斎
- 10代 野村祖休
- 11代 中村元賀
- 12代 野村餘休
- 13代 中村泰心
- 14代 野村円斎
- 15代 中村快堂
- 16代 向井竹蝸堂
- 17代 加計静堂
初代 野村休夢
野村盛安、彌兵衛尉と称し、休夢と号す。周防柳井の人。寛永9年広島に至り、宗箇に学んで上田家の茶頭となり、禄100石を給せられる。この人によって「茶道宗箇流」と称されるに至った。
承応2年2月7日没。
2代 中村知元
中村雅親。知元と号し、休夢の門人。禄100石を給され2代預りとなる。
3代 野村円斎
野村安宗。休夢の長男で、はじめ彌七と称した。9歳の時、宗箇の近習となり、皆伝を授けられた。
元禄9年4月晦日没。
4代 中村元賀
中村忠秀、元賀と号す。
5代 野村祖休
野村敏之。円斎の次男。初め良三と呼び、祖休と号した。
延享5年2月13日没。
6代 中村泰休
中村家中村泰心作 竹二重切花生
中村延情。泰休と号し、天地館知水とも号す。
7代 野村旦心
野村貞榮。祖休の子。はじめ秀悦と呼び、旦心と号す。
安永9年11月17日没。
8代 野村休夢
野村清明。旦心の子。はじめ不朽斎と称し、致仕して後休夢と号した。
文化5年12月27日没。
9代 中村知斎
中村篤美。知斎と号し、竹閑斎随風とも号す。
10代 野村祖休
野村幸治。8代休夢の子。祖休と号し、当時その技倆に秀でて並ぶものなく、茶名が高かった。
天保10年9月20日没。
11代 中村元賀
中村一正。元賀と号す。
12代 野村餘休
野村餘休作 御庭焼茶碗 銘 玉椿
野村貞固。祖休の子。餘休と号し、茶道を以て家を嗣ぎ名があった。頼山陽、本因坊因達とともに広島三才の一と謳われた。晩年大阪に遊びますます茶名を揚げたが、嘉永元年10月14日、同地に没した。
13代 中村泰心
中村忠和。泰心と号し、香林庵知水とも号す。
14代 野村円斎
野村盛孝。通称円蔵、奥村家より入って餘休の養子となり、幽谷庵松園、のち円斎、蟹廼舎と号した。征長戦には主・上田安敦に従って参陣し「陣中控」を残した。譲翁(安敦)の「雅遊謾録」にもしばしば登場する。
明治14年8月15日没。
15代 中村快堂
点前中村快堂 十三代安靖 明治30年頃
中村家中村快堂作 茶杓 銘 串山
中村豊次郎。泰心に男子がなく、湯川家より入って泰心の養子となり、松風庵快堂と称した。中興の祖といわれた譲翁によく仕え、茶道具の整理など綿密に行なった。 明治39年11月8日没。享年77歳。
16代 向井竹蝸堂
向井律。中村快堂の高弟。野村・中村両家に後嗣がないため、宗家より命ぜられて茶事預り師範を継いだ。竹蝸堂と号す。
大正13年12月20日没。
17代 加計静堂
加計登代子。交花亭静堂と号す。大正13年向井竹蝸堂の後を継いで17代、最後の預り師範となる。「茶道上田流」の著書がある。
昭和30年11月7日没。享年90歳。